奄美大島は鹿児島県です。
鹿児島市と沖縄本島の間で沖縄寄りに位置していて、8つの島で構成される奄美群島に属しています。
奄美群島とは、北緯20度に位置し、奄美大島、加計呂麻島、与路島、請島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の8つの有人島の事を言います。
その中でも奄美大島は奄美群島のなかで1番大きな島で、本土と沖縄、両方の影響を受けながらも独自の文化を持っている島です。
面積は、712.39平方キロメートルで東京23区や琵琶湖等よりも広く、島の北部から南部までは車で二時間ほどかかります。
北部は平坦な農地が多くあり、サトウキビの栽培などが盛んに行われています。
南部は、ほとんどが山地です。固有の生物が多く生息しており奄美大島の魅力がたくさん詰まっています。
島独自の島唄や、黒糖焼酎、大島紬等個性豊かな文化が特徴的です。
奄美大島の人口
奄美大島の人口は6万人弱です。
奄美群島全体でも約12万人となっており、奄美大島に多くの人が暮らしていることが分かります。
ただ、人口は減少傾向にあり、奄美群島全体の人口が10万人を下回るのも近い未来のようだと言われています。このことに歯止めをかけることが喫緊の話題となっています。
奄美大島の歴史
奄美大島はなぜ鹿児島県となったのでしょうか。その理由を奄美大島の歴史から見てみましょう。
大和・江戸と琉球の板挟みになった奄美大島
奄美大島の歴史は平安時代までさかのぼります。
平安時代末期、1185年にあった壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の平有盛が奄美大島に流れ着き奄美大島や近隣の島に城を立てたと言い伝えられており、島には平有盛を祀った神社が存在しています。
しかし、その後平家に代わって琉球王国が奄美大島を支配しました。琉球王国は武力を行使し、沖縄の島々を支配し、奄美大島や周辺の離島も含め何度かの反乱後、奄美大島は琉球王国の一部になりました。
ですが、そんな琉球王国の支配も長くは続かなく、江戸時代になると薩摩藩(現在の鹿児島県)が奄美大島へ侵略し支配を始めました。
当初は薩摩藩は差別的な支配で島人を苦しめたと言われていますが、江戸幕府がなくなり西郷隆盛が奄美大島にやってきたことで状況は変わります。
西郷は、湯治の薩摩藩が行っていた黒糖の取り立てに苦しむ島民側のため、運動をおこしたり、島の少年に勉強を教える等、湯治は島になかった数多くの文化を持ち込みました。
このような西郷の存在が奄美大島の島民が自分たちの島を鹿児島県であると意識するようになったきっかけだとも言われています。
北部琉球(Northan Ryukyu)と称された奄美大島
太平洋戦争中沖縄本島には米軍が上陸し地上戦が展開されました。
一方奄美大島や周辺の離島には空爆があったものの、最後まで米軍が上陸することはなく、戦争が終結します。
戦後、米軍は沖縄だけでなく北緯30度以下の小笠原諸島や奄美の島々を統治します。
その時に奄美大島につけられた名前は北部琉球(Northan Ryukyu)であり、琉球の一部として扱われました。
この時の米軍には南部琉球と北部琉球を完全に日本から独立させるという狙いがありました。
しかし奄美大島の人々はこの事を拒否してあくまで琉球ではなく鹿児島県の奄美大島であることを望みました。
この強い思いもあり最終的に米軍は「鹿児島県奄美群島」として奄美の島々を扱い統治することとなりました。
次々と挙がる祖国復帰の声
沖縄戦で焦土となった沖縄本島は街の復興が積極的に行われて活気を取り戻していきますが、奄美大島は米軍が行政を管理していて自由を奪われたような生活を送っていました。
こうしたこともあり、島の人々の間では鹿児島県へ戻るための活動、祖国復帰が活発化します。奄美諸島の人々の努力があり、1953年8月8日、米国のダレス国務長官により、「奄美群島に関して有する権利を放棄する」という声明が発表され、この声明によって奄美諸島は1953年12月25日に念願の日本への復帰を果たし、現在に至りました。
まとめ
今回は奄美大島は何県なのかを奄美大島の歴史を振り返りながら紐解いていきました。
驚いたことに、奄美大島は最初から鹿児島県だったわけではなく、戦前、戦後、様々な困難を経て鹿児島県となったのですね。
沢山の歴史を刻んで今に至るこの奄美大島の魅力をぜひ多くの方に感じてもらいたいと思います。
奄美大島にはいろいろな歴史があったんですね。
奄美大島は海が綺麗